
「愛」とはニュートラルな存在であり、燃えるような何かとは違うモノである
たまに、彼女と話してて「愛」とはなんだろうかと考えることがある。
異性に対する「好きだ」という感情と「愛情」という感情は、僕にとっては全く別物なのだが、
多くの人にとって、その二つの単語が近しいものと捉えられてる?ようにも思ええて驚きだ。
例えば僕にとっては、異性に対して感じる「好きだ」という感情は、子供の頃からずっと苦痛そのものだった。
ある意味、それは非常にワガママで自分勝手な欲望でしかなかったわけだが、
「話しかけたいけど出来ない」とか「うまく自分の好意を伝えたいけど出来ない」とか「自分と付き合って欲しいけど出来ない」とか…etc
そういう空回りした感情の行き着く果てが「好きだ」という悲痛な叫びとして言語化されたような感じだった。
だから、好きだという感情は、自分にとっては片想いを表す言葉のような言葉だった。
まあ、たまに世の中には「好きすぎて苦しい」とか言い出すメンヘラ女子がウザイって話があると思うんですけども、
学生だった頃の自分は、まさに恋愛に関してはそんな感じでした。好きすぎるといか、弱すぎるって感じですよね。
ただし、僕の場合は大人になるに連れての成長が著しくって、あの頃の自分とはマジで人格が180度変わった。
完璧に苦難を乗り越えすぎて、寺の坊主が悟りを開く勢いで達観してしまいました。
まず第一に、女性に対して謎の期待を持つことが完璧にゼロになった。
男性っていうのは、多くの場合「俺のことが好きなのでは?」と可能性を感じ始めると女性に恋しちゃう生き物なのだが、
そういう感情が一切消えて、確率論だろと認識するようになったし、ロマンチックが消えて、スッゲー合理的に考えるようになった。
色々とマッチングアプリとかも試してみると、どうやら僕くらいの見た目だったら、このくらいの確率で当たるのねと分析し始めた。
そしてその分析の結果、数打てばどうせいつか当たるでしょと達観した。
だから、もしも冷たい態度でフラれても、単純にマトに当たらなかっただけで、次行けばいいでしょと割り切るようになった。
多分、過去の恋愛失敗の経験がキツすぎたのか分からないけど、
とりあえず自分のことを、まだ好きではないかもしれない女性のことは女性と思わないことにして、
シンプルに的当てゲームの的くらいに考えるという最低なロジックで自分の心を守ったんだと思う。
どうせフラれても、同じような見た目の女性は何億人もいるから大丈夫でしょと、早い話そんな感覚になった。
でも不思議なもので、そうなってくると、何故だか自然と心にもゆとりが出来て、
相手に変な期待感もしないので、真っ直ぐに自分の好意を自然に伝えられるようになった。
そうなると自分でまた嬉しくなって、どんどん笑顔を振りまけるようになった。
その結果、必然的に女性に好かれる確率が上がり、
塩対応されることもあるが、大体うまくいくよなって気がついてから完璧にゲームをクリアする感覚になった。
これは良いことなのか悪いことなのかは一旦置いておいて、自分にとっては非常に生きるのが楽になった。
そして、そんなことを繰り返しているうちに今の彼女と出会った。
まあ、ここでちょっと話が飛びますけど、
それから今の彼女からは色々と人間関係を教わりまして、最終的には、新規に女性と付き合うという欲求そのものが消えた。
おそらくだが、今の彼女と出会って、色々と良い思いさせてもらったので、
「誰でもいいや」という状態から「彼女でいいや」っていう感情にグレードアップした感じだと思う。
こんな言い方失礼ですけど。
でも、実際これは僕にとっては非常に素直な今の気持ちで、自分にとっては「愛」という感情は、欧米的な「愛」とは全然違う。
むしろ関係性の中に築かれる絆みたいな感覚が近い。有り体に言えば家族のような感覚です。
家族って、血の繋がりではないですよね。関係性ですよね。
血が繋がってない子供でも、何十年も育てら立派な家族であり、絆が生まれるわけです。
そういう感情に似てる。
今まで色々喧嘩したり怒らせたり傷つけたりして申し訳なかったなとか思う罪悪感の中にも、
その絆で繋がれた愛情みたいなものを感じる。
溢れ出るような情熱もないけど、できればずっと側にいて自分が助けられることなら助け続けても良いかなって感じ。
これは人に寄って感覚が違うと思うけど。
まあ、そんな感じで雑に書き殴っただけだけど、僕にとっての愛情とは、すごくニュートラルなものでラブラブしたものではないですよという話でした。